JR木次線の路線名にもなっている木次町は宍道湖から南に約15kmほど入った山間部、斐伊川中流域の右岸に位置し、雲南3郡の接点に位置している事からこの地域でも有数の規模を誇る町です。「出雲風土記」には「来次」と書かれ、古代神話において、大国主命が八十神たちを追撃し、この地で追いつかれたというエピソードに地名が由来するといいます。古来より山陰沿岸部と奥出雲地域を結ぶ中継地として発達した町で八日市・三日市、新市の名が今も残ります。
斐伊川は古くから上流域で砂鉄採集のための鉄穴流しが行われ、これによって川床が上昇し、度々暴れ川となって中下流域の町を襲っていました。「ヤマタノオロチ」と「スサノオ」伝説の元となったとも云われるこの水害を防ぐため、江戸時代の寛永12年(1635)に松江藩主京極若狭守が大堤防の建設に着手。堤防事業はその後も長く引き継がれ、それが現在に残る若狭土手です。この土手には約1,300本の桜が植えられ、別名”木次さくら土手”とも呼ばれ、シーズンには花見客で賑わいます。
江戸時代の初めに起こったと云われる木次の紙市は、周辺農村で副業として生産されたものを集積し、
松江藩によって出雲国唯一の紙座が開設され事もあって、当時の出雲国内の紙市では最も盛況であり、それが後の在郷町としての発展の基礎になりました。紙市は毎月3と8の日の6回開かれ、雲南3郡だけでなく出雲各地から紙が集まったといいます。また江戸時代後期ごろからは、奥出雲産の鉄を材料とした木次千歯の製造が始まり、製紙と並ぶ木次町の主要産業となり、中国地方各地を初め大阪・長崎・新潟など全国にその販路を広げていきます。
木次町は斐伊川船運の拠点で、奥出雲地方との中継地として賑わった河港町でもあります。木次の町は、斐伊川とその支流である久野川に沿う形で、東西南北に「L」字に形成されています。
家並みは旧東城街道に沿い、町の背後には町と地形に沿ってJR木次線が走っています。町の玄関口であるJR木次駅は市街地の北端、三日市地区の外れに置かれていますが、古い町並みが色濃く残るのは真逆の南東部、久野川に沿った八日市地区です。雲南地域有数の在郷町として栄えた面影が残りますが、その大半は大正から戦後にかけて建てられた町並みです。
|