旧仁摩町仁万地区の南側、旧温泉津町に接する馬路地区。古くから小さな村落で、これといった資料は見つけられませんでしたが、中世における石見銀山の積出港はこの馬路浦(鞆ヶ浦)でした。現在は”鳴り砂”で有名な琴ヶ浜ですが、かつては銀鉱石の輸送船で未曾有の繁栄を築いた港町だったと言われています。
江戸期の馬路村は馬路浦と神子浦の2つの港を有して漁業や廻船業で町は発展し、幕府直轄地として銀山領二十二か浦七歩の一つに数えられています。現在の馬路集落は山陰本線と海岸線の間にあり、鞆ヶ浦の名残である小さな漁港付近に古くからの漁村集落が形作られていますが、JR山陰本線馬路駅付近の砂丘上を走る旧道沿いに、大正期から昭和初期の家並みが街道集落を思わせるような雰囲気で残されていました。この馬路もまた明治以降は石見左官の出稼ぎで生計を立てていた町でした。
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