北堀町塩見縄手の武家屋敷
現在は島根県の県都である松江市も、中世から戦国時代にかけて毛利氏が支配してた時代の政治の中心地は、松江から南東へ約20km離れた山間部の町、現在の安来市広瀬町(旧・能義郡広瀬町)富田にありました。中世からの山城は月山富山城と呼ばれていました。
やがて慶長5年、関ヶ原の戦い後に出雲・隠岐二国23万5000石に封ぜられた堀尾吉晴は、この月山富山城を政庁として出雲富山藩が成立しますが、山間の山城で軍事的にも、都市構造的にも問題の大きかった富田から宍道湖の面した末次(すえつぐ・後に松江に改称される町)に城と城下町を移します。
土木に精通した堀尾吉晴は、5年の歳月をかけて実戦に備えた堅固な城を築き、武家屋敷や城下町を配置します。ところが、堀尾氏は嗣子がなく三代で改易。次の京極氏も同じく一代で無嗣改易となり短命の藩主が続きますが、寛永15年(1638)に徳川御家門筆頭、越前松平家の松平直政が18万6000石で松江に入封し、以後230年続いて明治を向かえます。
石橋町の町並み
当初の松江藩は慢性的な財政危機に苛まれ、常に倒産寸前の経営状態にありました。歴代藩主はさまざまな財政再建政策を行いますが一行に回復せず、 松江藩が立ち直るのは7代藩主松平治郷を待たなければなりません。治郷は藩政改革担当家老、朝日丹波に絶対的な権限を与えると、リストラの強行や増税、藩債の踏み倒しなどなど強引な改革を次々と行い、藩の財政を180度好転することに成功させます。
こうして藩が潤うと、茶人でもあり「不昧公」としても知られた治郷は、後に確立される松江の茶文化や菓子文化を築き上げ、また茶道研究や多くの文化的活動に没頭しはじめます。しかしこれによって藩の財政は再び厳しくなっていくのです。
現在松江の城下町は島根県の中心都市として近代的な発展が進み、往時の街並みはほとんど残されていない状態ですが、そんな中でもわずかに残る藩政時代の街並みが、北堀町にある塩見縄手の武家屋敷町です。堀川べりの老松と供に重厚で複雑な長屋門や塀が連なる姿は
壮観です。和船で堀川めぐりもできるので、水辺から見る風景もまた格別ではないかと思います。
続いて塩見縄手から続く、石橋町には2軒の酒蔵があります。島根県を代表する銘酒「李白」の李白酒造の界隈から原田本店に続く道筋に、白壁のや平入り商家の街並みが残されています。
また、島根県庁の南側、京橋川対岸の中州にある東茶町には国輝酒造の商家が、さらに東本町の表通りなど、市内のところどころに城下町の遺構である古い佇まいを見る事ができます。
東茶町にある国輝酒造の商家 |