「安来節」で有名な安来市の南に接する伯太町の中心地、母里(もり)は、江戸時代に、松平氏1万石の陣屋町として発達した町でした。 寛永15年(1638)越前松平直政が松江に入封すると、三男隆政に1万石を分知します。当初は松江藩の蔵米支給でしたが、後に出雲能義郡に1万石の新田が与えられ、ここに藩領が確定して母里藩が成立しました。
しかし、歴代藩主は参勤交代を行わない「江戸定府」であり、母里には「御館」と呼ばれた陣屋が設けられ、わずかな留守番家臣団が置かれていただけでした。 母里藩は幕末・明治まで10代100年間続きましたが、藩主が帰国したのは幕末になってからの事。 しかもこの時、最後の藩主である松平直哉は帰国してすぐに第2次長州遠征軍への参加が命じられた、ほんの僅かな滞在期間でこの地を後にしたのです。
慶応3年、徳川慶喜により大政奉還を期に松平直哉は江戸邸を引き払い、この母里に永住することを決意します。そして母里陣屋の拡張や藩士の邸宅の建設が急ピッチで行われる事になるのですが、その矢先に版籍奉還が施行され、藩と共に武家の身分も解体されてしまいます。
新体制が始まり、再び母里藩知事に任命された松平直哉は、旧藩士を帰農させる政策を行いました。 それは藩が農民から土地を買い上げ、順次家臣に分配していくものあり、有償で土地の所有権を農民から士族へ移すという、全国にも例が無い独自の土地変革の政策でした。しかしこの政策もまた廃藩置県により途中で挫折を余儀なくされてしまいまいます。
歴史の転換期に翻弄される松平直哉ですが、 しかし、これら藩内の政策を松平直哉は自身の私財を投じて行った為に、廃藩置県後に直哉が知事の任を解かれると、 県民による知事解任への反対運動が引き起こる事となるのです。この出来事は時の明治政府を驚かせました。
母里の町並みは、もともとが武家町の性格をもつ町ではなく、また松平直哉の政策によって多くの藩士が帰農していた事もあり、武家屋敷の遺構すら残されていません。 母里藩の陣屋自体が藩士の館を借用して使用していたものであり、廃藩後は再び藩士の自宅として戻されています。 これらの事からも当事から今にいたるまで母里は陣屋町というよりは、小さな在郷町的な町割しか無かったのではないかと思われます。母里周辺には大きな屋敷を構える農家が多く見られますが、幕末に直哉によって帰農した藩士の家系なのかも知れません。
母里の商店街・町人町地区
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