大田市は島根県のほぼ中央部に位置する中核都市で石見三田と呼ばれる大田市・浜田市・益田市の三兄弟の最東部の町です。現在でこそ島根県の主要都市の一つに数えられますが、戦国期を通して毛利氏・尼子氏・大内氏による争奪線が繰り広げた場所でもありつつ、大田という名は江戸期まで特に歴史上にその名が登場する事はありません。
地名の歴史で言うと、古代から鎌倉期までは邑陀(おおだ)と書かれていました。この邑陀郷が鎌倉期に北郷と南郷に分かれ、江戸時代の大田北村・大田南村につながります。この二つの大田村は江戸時代になってからそれぞれ市場町として顕著に発展しはじめます。
大田南村の中心は町場で大田南町と称し、室町末期より鍬市・竹市が立って、また稲荷神社には稲荷市が立ったほどの古くからの市場町で、もう一方の大田北村は円応寺の薬師市が立っていて村の中心地が町場化していきました。やがて江戸時代初期に吉永加藤藩主によって北町の市と南町の市が統一されて、150店もの店舗が並ぶ「大田の春秋彼岸市」となり、大田北町も大田南町も急速に石見有数の都市へと発展していったのです。
この大田市場町の繁栄は昭和の時代まで続いたと思われ、今もなお旧石見街道沿いには往時を偲ばせる古い町並みが残されていました。しかし現在、郊外型大型店舗が進出している中で、多くの地方都市の駅前商店街のシャッター通りのごとく、旧市街となった大田の町に活気を見る事はありません。
町並みの規模から往時の繁栄ぶりを垣間見る事はできます
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