大田市は細長い島根県の中心に位置し、日本海に面する石東地域の中心都市です。かつてシルバーラッシュを引き起こした鉱山として世界的に知られる大森銀山(石見銀山)は大田市の南西約15kmの山間部に、北東から南西に走る二つの尾根筋に挟まれた細長い谷に形成された町です。
銀山川に沿って約1kmに連なる伝統的な古い町並み。かつてこの町には20万人にも及ぶ人口を有し2万軒以上の住居が覆いかぶさるように密集していたてと言われています。
大森代官所前から羅漢寺の門前町である羅漢町までを大森町、その先、蔵泉寺口から龍源寺間歩までを銀山町と呼びました。町は町人や工人、武家屋敷の住み分けは無く、秩序なく混在しながら拡張を続けていました。
この石見銀山の発見は室町時代と言われ、石見国守護の大内氏によってその開発がはじまりました。 関ヶ原の戦い後、徳川家康は即時に石見銀山を直轄地とし、大久保長安を奉行として送り込み本格的な開発を行っていきます。石見銀山は江戸時代初期ごろは佐摩銀山(さまぎんざん)と呼ばれていましたが、石見銀山(広域)の中心地が大森となり、代官所や武家屋敷が設けられた頃からそ「大森銀山」と呼ばれるようになります。海外では日本産の銀を「ソーマ」というブランドで呼ばれていましたが、これは「佐摩」に由来すると言われています。
中山道の整備や佐渡、伊豆の銀山経営で辣腕を振るった大久保長安は石見銀山の開発でもその能力を最大限に発揮し、最新技術も積極的に取り入れ銀の産出は飛躍的に増大します。 産出された銀は仁摩や温泉津から船積みをされていましたが、冬季の季節風による航海への支障対策から中国山地を縦断して瀬戸内海の尾道へと移送する、陸路「銀山街道」(総称)をいくつも建設しました。
また海外に輸出された銀と共に「石見銀山」の名も中国・朝鮮半島を経由して大陸に渡り、はるかヨーロッパにまで伝わりました。当時全世界の1/3を占める産出量を誇った石見銀山ですが、その採掘量は寛永年間にピークを迎え、40年ほどの短い期間で終わりを迎え、幕末にはほぼ枯渇し大森の町の繁栄もここに終わります。
そして大森は過疎の村へ衰退の一途をたどりますが、昭和32年に住民によって大森町文化財保存会が結成され、町並み整備が始まりました。 Uターンした若者達も加わり町おこしが行われ、その後国の重要伝統的建造物保存地区に選定されます。
急展開を見せるのは2007年に世界文化遺産へ登録されてからの事。県を上げて大森の町は一大観光地へと整備が進められる一方、地域外からも資本が参入してくるなど急速な商業化が進み、かつてのひっそりとした山村の性格が大きく変わろうとしています。
大森代官所の長屋門
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