日本海に面した青谷町は江戸時代から木綿と和紙の産地として知られ、なかでも和紙は今でも町の重要な産業の一つです。
伯耆街道(山陰道)の宿場町として発展した青谷は、隣接する周辺村を総称して「青屋」とも称され、鹿野往来との分岐点という交通の要衝でもあった為に、日置地域の中心地として鳥取藩の青屋御蔵や青屋御茶屋が設けられていました。
青谷の町並みは地形の影響を受けながらも、縦横の整頓された形態をしています。往時を偲ばせるような伝統的な町並みは目立つ通りには見あたりませんが、勝部川と日置川の合流点、旧山陰道(伯耆街道)や鹿野往来沿いに酒蔵を始めとした町家が数棟隠れるように残されています。
家々は赤茶色の石州瓦に漆喰の白が眩しいほどに冴えていますが、いずれも仕舞屋となっていますが、その町並みの一画に建つ小さな酒蔵、西本酒造場は一見廃業している様に見えますが今も現役で、あまりメジャーな蔵ではありませんが、女性の杜氏が醸す蔵として知られていました。蔵の創業は、元治年間(1864年)という老舗で、終戦頃までは「萬屋」を屋号としていました。
青屋町と言えば、知る人ぞ知る鳥取県を代表する銘酒「日置桜」のある町です。「日置桜」の山根酒造場はJR山陰本線を越え、農村地帯が広がる日置川を遡った郊外の小さな集落大坪地区にひっそりと佇んでいます。
この日置地域が古くから和紙生産の中心地でした。和紙も木綿も江戸時代に発展したもので、当時の青屋商人松田屋吉右衛門が大阪商人との取引があったと言うことで、鳥取藩の命により大坂方面への販路開拓に尽力し、藩の財政を支えたのです。
山根酒造場は明治20創業の小さな蔵元ですが、こだわりの酒造りが数々の受賞を生みその名を県外に多く知られる事になりました。青谷という無名な町を盛り立てる全国区な銘柄は、先の青谷商人に重なるものがあります。
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