米子の南約25kmに位置する日野郡江府町は人口3千人弱の町。その中心部である江尾は町を北流する日野川に小江尾川と舟谷川が合流するわずかな盆地に形成された町で、この町を軸にするように日野川がまるで海老の姿のように大きく湾曲している姿に地名が由来すると言われています。中世には江美とも書かれていました。また日野川(江)に支流が集まることから、川の集まる中心地(府)という事で江府の町名が名付けられたのです。
古くからの要衝であったこの地には、戦国期に伯耆尼子氏の家臣、蜂塚氏が江尾城を築いてその城下町として発展しますが、最後の城主蜂塚右衛門尉と毛利氏が激戦を繰り広げ、その壮絶な最期によって蜂塚氏は滅亡。その戦国悲話は、毎年この町の旧盆に開催される、日野路最大の夏祭り、江尾十七夜に秘められています。この江尾十七夜は江尾城主蜂塚氏が、毎年この時期に城を町民に開放して、無礼講の祭りを開催したのは始まりとされています。
江尾は備中、備前、備後方面からの大仙詣の起点ともなり、大山往来(後の江尾美作道)は美作国真庭郡と米子を結ぶ物資往来の要路でした。
その大山往来と日野往来(出雲街道)の追分でもある江尾は江戸期を通して幕末まで宿場町として栄え、交通の要衝として、慶応元年には番所も設置される事となります。
また7月7日・12日、12月22日、24日の年4回定期市が開かれ、在郷町としても賑わい、享保9年からは年2回の牛市も開かれるほどでした。
大正11年に米子から江尾まで国鉄伯備北線(JR伯備線)が開通。昭和10年には岡山県川上村に陸軍松江歩兵第63連隊の演習場が設けられ、江尾美作道(現国道482号線)は江尾駅から演習場を結ぶ軍用道路として改良が進められます。同じく江尾駅もまたプラットホームが延長されています。こうした要因もあって、江尾の町はこの地域の中心地である事を一層盤石なものにしていったのです。
現在、山陰山陽を結ぶかつての出雲往来・国道181号線はJR伯備線を挟んだ駅の西側をバイパスし、無人駅となっている江尾駅を中心に、街道町の面影を残すひっそりとした江尾の町に往時の賑わいはありません。静寂に包まれた町の中を、暗渠を勢いよく流れる水の音が響いていました。
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