智頭往来・国道53号線を用瀬から鳥取に向って走っていると、山の上にそびえる天守閣を発見しました。この地域に有名な城下町があるという資料は無かったので少し興味をそそられ、寄り道してみました。ここは河原町という町で、手持ちの日本酒の資料では酒蔵が2軒あることが分かりました。城下町と酒蔵という重要なキーワードが2つも揃い期待が膨らみます。
河原町は千代川(せんだいがわ)3支流の合流点に開けた町で、ちょうど鳥取市と用瀬町の中間点に位置し、古くから陸路水路の交通の要所でした。智頭往来を行き交う人々や物資は、陸路よりもこの河原町から舟で千代川を行き交う事が多く、河原町は陸と川を結ぶ接点の町として栄えます。さらに河原は智頭地域から木材を筏状にして運ぶ、筏流しの筏宿(基地)でもありました。
こうして賑わった河原は、文久3年には正式な智頭往来の宿場町に指定されたのですが、その負担に耐えきれず翌年に宿場業務の停止を願いでて許されています。
天正8年(1580年)豊臣秀吉は因幡平定の際に、鳥取平野を見渡せる山の上に陣を築きました。その場所に現在「お城山展望台・河原城」という町の資料館が建てられています。これが最初に目に入った天守閣でした。
2軒の酒蔵がある河原地区には伝統的な様式の町家や土蔵が多く残っています。そして通りの裏手には、街並みに平行して流れる小川と土蔵街の風景があります。
河原は千代川の伏流水に恵まれ、良質な米どころでもあり、大庄屋や庄屋によって酒造りが行われ、江戸時代には10軒以上の酒蔵があったといわれます。
現在も続いている2軒の酒蔵は、これといった看板も無く発見が難しいほど小さな蔵でしたが、母屋はまさに庄屋屋敷らしい造りであり、また野趣あふれる塀が印象的でした。
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