日野郡日野町の丁度まんなかに位置する黒坂は、日野往来の宿場町として発展した町で、今も往時を偲ばせる家並みが残されています。
黒坂という地名は、町の周囲に九つの坂があった事から九路坂と称したことに始まったといいます。そして黒坂は元禄年間に伯耆・備後国境の集落であった多里に宿駅が設けられるまでは、伯耆国内で最奥、最西端の宿場町でした。もっとも宿の機能は無く、人馬継立てのみを行う「駅」であったと言われています。
宿場町となる以前の黒坂は、関氏5万石の城下町として栄え、町の基礎が造られました。
関ヶ原の戦後の慶長15年(1610)関伊勢亀山藩主・関一政が2万石加増の上の5万石で黒坂に封ぜられ、7年間この地で治政にあたります。
黒坂城はJR黒坂駅の西裏側、日野高校黒坂分校から少し山側にかけて建設され、その城下町は城の東側一帯に山を削り沢を埋めて平地として、南北へ街筋5通り、東西に5通りの町割りを行いました。
一政は築城や城下町建設で尽力し、藩政の確立に努め、大坂の役においても戦功を挙げたものの、元和4年に幕府の外様潰し政策によって家中騒動を理由に改易され、黒坂藩は廃藩となってしまいました。
その後、池田光政が因幡・伯耆32万石で入封し鳥取藩が成立。そして黒坂には重臣池田下総守が配置されます。
さらにその後、国替えによって新たに池田光仲が鳥取藩主となり、黒坂には筆頭番頭の福田氏を配置して、「自分手政治」という領地経営を行ったのです。
黒坂には関氏時代の黒坂城内に設けられた「黒坂陣屋」跡に陣屋を設け、城奉行を駐在させて黒坂陣屋と称していました。
かつての日野往来である国道183号線は、日野川を挟んだ東側を大きくバイパスしている為に、旧道沿いの町は非常にひっそりとしています。山間に開けたわずかに平野部に形成された約1kmの町並みには、特に大きな商家や歴史的に重要な建物はないものの、旅人や商人が行き来した往時の面影が残っていました。
日野川を渡る伯備線の鉄橋
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