中国山地に抱かれた「流し雛」の里で知られる用瀬は、智頭往来(因幡街道)の宿場町として賑わった町でした。
智頭往来の歴史は古く、平安期から因幡と畿内をむすぶ重要な官道でした。
秀吉の時代に家臣の磯辺兵部太輔が用瀬景石城に入り、城下町、宿場町として発展させます。そして江戸時代になると鳥取藩に引き継がれ、用瀬宿には藩主の休憩所である御茶屋が置かれました。御茶屋は本陣であるとともに藩庁でもあり、藩役人として「目付け」と「山奉行」が駐在しました。
集落を流れる瀬戸川沿いに立ち並ぶ蔵と石橋は用瀬を代表する風景。智頭往来沿いには連続性はありませんが、往時を偲ばせる古い商家や屋敷が建ち並んでいます。
戸時代から伝わる用瀬の流し雛は厄払いの行事です。現在は県無形民俗文化財に指定され、観光行事となっていますが、もともとは旧暦の3月3日「上巳の祓い(じょうしのはらい)」で、人形に自分の災いを移して川に流した事に始まります。
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