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  根雨
ねう
 たたら製鉄で栄えた出雲往来の宿場町
 鳥取県日野郡日野町根雨

 構成:商家・町家 ■ 駐車場:なし
 
 根雨宿の大鉄山師「近藤家」
 

根雨は(ねう)と読み、あまり聞き慣れない名前ですが、伝統的な宿場町の佇まいが残る町として知られています。根雨宿は古くから、たたら製鉄と出雲往来で栄えた宿場町でした。出雲往来は、古くから畿内と出雲国を最短でむすぶ道であり、古代には出雲から大和へ鉄を運ぶ道として、江戸時代には出雲・伯耆諸藩の参勤交代の道になりました。日野往来との分岐点として要衝でもあった根雨宿には松江藩主の休憩所兼藩庁でもある茶屋本陣が置かれていました。

古代からたたら製鉄の産地であった日野地方の生産量は、江戸時代に入ると急速に拡大し、多くの有力な鉄山師たちを生み出します。その中に、日野最大の製鉄家である近藤家があります。安永8年(1779)備後屋喜兵衛(近藤喜兵衛)が日野の製鉄事業に乗り出してきました。幕末から明治にかけての製鉄生産量は中国5県で実に96%を占めています。すでの鳥取県下で最大の鉄山師となっていた近藤家は、日野郡内に61カ所の鉄山と78カ所の製鉄工場を経営していました。

日野の製鉄が大きく変わるのは、明治6年に発布された「日本坑法」からです。
この法律は鉱物資源の国有化と採掘権の国家による独占を定めたもので、鉄山師は国から鉱区を借り、借区税を納めるほか、さまざまな制約や義務が課せられ、巨額の資本が必要であり、旧来からの日野の製鉄家は急激に衰退していきました。
そこで、県は明治9年に根雨宿の鉄山師近藤喜八郎を鉄山用係に任命し、再生を図ります。しかし、大正頃から輸入鋼に圧迫され始め、昭和に入るとまもなく鉱山の火は途絶えました。

国道181号線は根雨の町を高架でバイパスしている為、無意識に走っていると道は街並みの頭上を通り越し通過してしまいます。これゆえ古い街並みが守られているのですが、旧道へアクセスするには、いったんJR伯備線日野駅を目指した方が分かりやすいです。
この駅前から続くおよそ500mにわたり続く伝統的な街並みは白壁の塗籠造りと千本格子に赤い石州瓦と、この地方で標準的な色彩の街並みですが、その中でもかつての製鉄業で栄えた重厚な旧家の屋敷が町並みに強いインパクトを与えています。