境港市は弓浜半島の北端に位置する人口3万5000 人の町で、境水道を挟んで美保関町と接し、昭和47年に開通した境水道大橋によって結ばれています。「境」という地名はその名のとおり、古来より出雲と伯耆の国境に位置していた事に由来するもので戦国期までは堺村と呼ばれ、境(さかえ)村となり「境」の文字があてられるのは江戸期に入ってからのことです。
古来より文献に記されるこの地は、戦国期には毛利氏の戦略拠点として、兵糧米の陸揚げや水軍の停泊地となっていました。
江戸期になると外浜海道、内浜街道及び内陸を走る小さな往来の3本の境往来が整備されます。境村には鎖国による美保関の外国船監視のために、「浜ノ目番所」が置かれた事に始まり、北前船が寄航する商港として多くの豪商も輩出。松江、安来、米子の外港として発展していき、宝歴13年には遊郭の認可が特別に下りていることからも、その港の繁栄ぶりと重要度が伺えます。
藩政期を通して境港は鳥取藩の重要な港で山陰最大の商港に発展していきます。
境港にはまず鳥取藩の御廻米役所が置かれ、御手船(藩船)による廻米輸送と同時に上方方面からの諸物産が陸揚げされました。以後鳥取藩の出先期機関が相次いで設置されます。まず日野郡で産出された、たたら製鉄を集荷する「鉄類預所」及び「日野郡鉄山融通会所」が設置され鉄買船への売り渡しが行われると共に、
金融機関である「出銀座」が商人への資金融資を行いました。さらに輸送コストダウンを図るために藩営造船所である「御手船作業場」が建設されています。幕末には外国船に備えるためにお台場(文久山砲台)が建設されていますが、この台場は5門の大砲が配置される因伯最大規模の要塞でありました。
明治以降も山陰最大の港として繁栄は続き、山陰線建設のための資材はこの境港に陸揚げされ、ここから米子まで資材輸送のレールが敷かれましたが、これが現在の境線にあたります。
しかし皮肉にも境港が要となった山陰線の開通は、物流のシフトを意味し、やがて境港を衰退させていく事になります。再びこの港が脚光を浴びるのは、日中戦争が始まり、大陸進出の基地として港湾整備が行なわれていく頃まで待たなくてはなりません。そして現在は山陰最大の水産港として知られています。
境港と境水道大橋
現在境港には藩政期に栄えた港町としての面影はあまり残されてはいません。市は現在、町おこしの一貫として「ゲゲゲの鬼太郎」で知られる漫画家・水木しげるの出身地として妖怪の銅像が建ち並ぶ水木しげるロードに加え、NHKの連続ドラマ「ゲゲゲの女房」によって再ブレイクに見舞われており、週末やシーズン中には多くの観光客で賑わっています。
古い町並みは境港の広範囲に点在しています
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