鳥取から姫路に抜ける国道29号線は若桜町を通るので若桜街道と呼ばれますが、播州往来や因幡街道とも呼ばれていました。JR郡家駅からわずか7駅だけの若桜鉄道の終点の町若桜は江戸時代の陣屋町であると共に「カリヤ」のある町として知られています。「カリヤ」とは「仮屋」の意で、家の軒先を約1mほど張り出し、雪や雨の日でも傘をささずに歩けるというもので、今でいうアーケードのようなもの。 同じようなものに新潟の「がんき」、青森の「こみせ」がありますが、つまりこの若桜も豪雪地帯であることを意味しています。
因幡と播磨の国境に位置する若桜は戦略的な要地でもあり、中世から山城が築かれ、戦国時代に豊臣大名木下重賢が入り、近代的な城郭と城下町が整備されました。そして関ヶ原の戦いが終わると、若桜には摂津三田から山崎家盛2万5000石が入封しここに最初の若桜藩が成立します。しかし山崎氏はわずか二代で備中成羽へ移され、その後鳥取藩に編入されて、城郭は一国一城令によって破却されてしまいます。
元禄13年(1700)鳥取藩藩二代藩主池田綱清が弟の清定に分知別家を行い、鳥取新田藩を立藩。しかし若桜に陣屋は置かれず、藩庁は鳥取城下の西側に構えました。 よって藩としては「鳥取西館藩」とも言われますが、幕末の動乱を経て明治元年になって始めて若桜に陣屋を置いたことにより、ようやくここに後期若桜藩が成立しました。とはいうものの、表向きには独立した大名でしたが、財政的には本藩の会計に組み込まれ、若桜藩の慢性的な財政難は本藩をも圧迫。翌年には本藩へ吸収合併されてしまいますます。この辺の御家事情は同じく「鳥取東舘藩」として立藩して、わずか1年で本藩に吸収された鹿野藩と同じです。
若桜の町並みはこの地方でお馴染みの、赤い石州瓦に白や黒の塗籠造りで、ナマコ壁が装飾的に用いられています。おそらく明治期以降の建物と思われますが、このような町家はわずかしか残されていません。この町並みと平行する裏路地に土蔵街があります。「蔵通り」「寺通り」と呼ばれるこの小路は、明治の大火後に寺町と土蔵の配置が決められた建築規制によって生まれたものです。裏手の街並みには表通りとは大正に土壁や板張りの街並みも残されていました。
|