米子から西へ約8.7km、昔の距離で言うと2里8町の場所にある淀江の町は美保湾に面した山陰道(伯耆街道)の宿場町として知られています。
淀江の中心市街は日本海沿いに細長く形成された砂洲の上に立地していますが、古代のこの一体は後に淀江湾と呼ばれる深い入江で、古くから天然の良港だったと文献に記されています。淀江の地名もこの「淀んだ入江」に由来するといいます。
その後淀江湾は広大な湖となり、やがて低湿の水田地帯へと姿を変えていきました。古来より山陰道と大山信仰における参詣道の要地であった淀江は、交通の要衝として早くから市が立つ町であると共に、戦略的な要地としてたびたび戦場と化していました。やがて江戸時代になると伯耆街道の宿場町に、江戸中期には淀江港が置かれ伯耆地方の商業の中心地として発展していきます。
これは城下町米子に隣接していた事で町の規模も大きく、行政・経済の上でも重要な町だった事に加え、米子の商人と競合関係にありながらも、米子と一定の距離があった事で、独自の地方的商業中心地を形成できたことが挙げられます。
これらによって淀江は多くの豪商を輩出、この地の酒造家も12軒を数えたといいます。
しかし、元禄年間と明治24年のたび重なる大火によって町は幾度も消失。昭和30年に新設された国道9号線が旧伯耆街道を避ける形で海側にバイパスしたものの、その後の町の発展によって旧道筋は静寂が保たれているものの、ほとんどの建物が昭和期以降に建て替えられたものになっています。家並みは日本海沿岸部に多く見られる下見板張りの建築様式ながら、近世宿場町時代を偲ばせる建物はわずかに散見される程にしか残されてはいませんでした。
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