鳥取県西部の中核都市、米子市は島根県と接する県最西の町で、古くからの城下町であるとともに、陸路・海路の要衝であり「山陰の大阪」と称されるほど栄えた商都でした。戦国期から江戸期までは城下町として栄えた町ですが、今となっては城下町の面影はほとんどなく、町割りと町名にその遺構を見ることができる程度です。そんな中で、加茂川沿いの土蔵街と豪商の屋敷が米子を代表する町並みの風景として知られています。
中世から出雲・伯耆の国境に位置する戦略的な要地として砦が築かれていた米子ですが、初めのころは加茂と呼ばれた小さな漁村でした。ここに最初の米子城を築いたのが三本の矢で知られる毛利氏の部将吉川広家(後の岩国藩主)でした。続いて関ヶ原の戦い後に入封した中村一忠の米子藩時代に近代的な城下町は完成され、今に続く米子の町が整備されます。
ところがこの中村家は僅か2代で改易されてしまいます。当事まだわずか12才だった藩主一忠の後見人として、横田村詮が幕府より派遣され家老として執政を行っていました。いわゆる附家老である田村詮は辣腕を発揮し、米子城の完成や城下町の整備、街道や宿場町、港町の整備に尽力し商工業の育成も行い藩を発展させます。
しかし、それを妬んだ重臣によってデマを吹き込まれた藩主一忠は村詮を謀殺。これを知った田村詮の遺族は反乱を起こして藩内に内戦にが起こってしまいます。最後は他藩の応援によって鎮圧されますが、中村家もここで終わりとなります。
寛永9年 (1632)岡山藩池田家と鳥取藩池田家が入れ替えになると、新しい鳥取藩主池田光仲の筆頭家老である荒尾成利が米子に入ります。
荒尾氏は独自の行政権である「自分手政治」を藩より認められ、以後230年間米子は荒尾氏が世襲して明治を迎えました。鳥取藩の支藩だった米子は、江戸期を通して商業の発展に力が注がれ、山陰の一大商都へと発展していったのです。
寺町も城下町の遺構で米子のもう一つの風景
賀茂川土蔵街の風景
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