毛利氏長州藩36万石の城下町の成り立ちについては萩城下の中心であった「堀内」の項を参照していただくとして、その南に位置する平安古(ひやこ)地区もまた堀内に続いて萩城下で2番目に国の重伝建(重要伝統的建造物群保存地)に選定された場所です。
萩城の外堀を隔てて三の丸(堀内)に対面する地区で、平安古筋が外堀に架かる平安橋から南へと延び、石屋町筋と吉見橋筋がそれぞれ東西に横切っていいます。主に武家屋敷町を平安古といい、町人町は平安古町1丁目・2丁目と分けられていました。
坪井家の長屋門や城下町ならではの「鍵曲」が残ります。(萩には堀内の鍵曲と平安古の2つの鍵曲が残る)
平安古は平安湖とも書かれ、平安湖という沼地があったという説もありますが、現在の地名の由来としては、三の丸付近にあった平安寺の門前町を新しく出来た本町に移転させた事から平安寺の古い門前町という意味で平安古になったと言うのが有力となっています。
現在田中別邸として公開されている旧毛利筑前下屋敷・明治の新しい時代を迎え、生活に苦しむ士族の為に夏蜜柑栽培を奨励した
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