毛利氏36万石・長州藩の城下町としては全国屈指の町並みを残す萩。天守閣など城の姿はありませんが、武家屋敷、町人町の町家や豪商の商家、藩の外港浜崎は経済の中心地を担った商家の町並みなどが広範囲に残り、国の重伝建(伝統的建造物保存地区)は萩の中心市街だけでも3箇所に及びます。
中国地方全土10ヶ国、その石高200万石をも領有した戦国大名毛利輝元氏は、関ヶ原の戦いで豊臣方の西軍大将に担ぎだされた結果、敗戦によって現在の山口県にほぼあたる周防・長門二ヶ国の36万石に減封されたうえ、さらに居城は山陰地方の萩に追いやられてしまいます。萩は阿武川河口に形成された三角州で、後に城下町となる場所のほとんどが湿地帯。さらに城が築かれる予定地である指月山は、まだ完全に陸続きになっていない島という、江戸幕府の意図的な仕打ちともいえる土地でした。したがって町の建設は埋立造成から始めるという大きなハンディの上から始められます。この事業は地域を分けて、毛利氏一門に分担させて行われました。
ここで城の完成を急いだ毛利輝元は、突如建設中の萩城に入場。
これは「御打入り」と呼ばれました。萩城の建設と共に城下町の建設も平行して行われ、ほぼ現在の区画が出来上がります。三角州の大部分は武家屋敷にあてられ、町人町は新堀川の内側北部に限定されていました。現在萩の街並みを大別すると、堀内の上級家臣屋敷、平安古町から江向、回り込んで土原が中級家臣屋敷、川島もそれ以外の武家地区となります。
そして、細かく町割りされた町人町と寺町が武家地に囲まれる形で形成されています。
堀内はまさに萩城の外堀の内側の町で毛利一門や家老などの藩の重臣や上級武士が屋敷を構えた場所です。元禄8年の記録には159軒の武家屋敷が存在していました。現在も萩観光の拠点ですが、武家制度の崩壊後、多くの屋敷地はみかん畑などに姿を変え、現在は長屋門や土塀が残るのみとなっています。また広大な屋敷地は高校や中学校、博物館や萩焼の工場など萩市街の観光・文教地区となっています。
堀内の鍵曲
毛利家永代家老を務めた福原家萩上屋敷門
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