中国地方全土10ヶ国、その石高200万石をも領有した戦国大名毛利輝元氏は、関ヶ原の戦いで豊臣方の西軍大将に担ぎだされた結果、敗戦によって現在の山口県にほぼあたる周防・長門二ヶ国の36万石に減封されたうえ、さらに居城は山陰地方の萩に追いやられてしまいます。
萩は阿武川河口に形成された三角州 で、後に城下町となる場所のほとんどが湿地帯。さらに城が築かれる予定地である指月山は、まだ完全に陸続きになっていない島という、江戸幕府の意図的な仕 打ちともいえる土地でした。したがって町の建設は埋立造成から始めるという大きなハンディの上から始められます。この事業は地域を分けて、毛利氏一門に分 担させて行われました。
萩城の築城工事と並行して城下町の建設も進められます。三角州中央付近に玄武岩の石柱を立ててこれを町割りの基準点とし、道路は3つの総門から各街道に至る路線が基準となりました。
慶長10年にはすでに城下に諸士の宅地(武家屋敷)が定められます。萩城三の丸(堀内)は一門や重臣の屋敷地、平安古や江向もほとんどが武士で、東の土原や川原地区には中級武士の屋敷があてがわれました。そして三角州北側一帯にかけてが商工業の町人が住む町人町とされました。
萩城下の町数は享保年間における幕府への公式発表によると58町とありますが、実際に町年寄を置いた本町は30町、現在の萩中心部に残る町名とほぼ同じとなります。萩の大商人の多くは中世の豪族や武士であった為に、前官待遇を受けて名字帯刀を許されていました。その数39人にも及びます。これらの商人は藩の町年寄や町方役人として一定の支配権を与えられ、城下町支配の下部組織に組み込まれていました。経済の発展と共に商業活動は拡大し、文政年間(1818〜30)には防長両国での御用商人の数は、古くからの旧家以外にも藩外、特に上方圏の有力商人にまで拡大し、その数194名を数えました。
そんな萩は、幕末明治の戦火も、太平洋戦争の戦火からもほとんど無縁であった事に加え、正面を日本海に、三方を山に囲まれた都市であり、道路・鉄道・港湾の整備も遅かったために経済的な発展も弱く、それが日本有数の近世城下町の姿を色濃く残す要因ともなったのですが、それでも町人町に至っては、人口5万人の都市の中心部である事もあってか、古い町並みは探して見つかる程度しか残されてはいない状況でした。。
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