R周防花岡駅前の通りは、古来からの旧山陽道であるとともに宿駅が置かれた宿場市、花岡市として発展した町でした。
現在の地名である下松市末武上(すえたけかみ)の末武とは、中世の荘園である末武荘と、下松市街北側に広がる末武平野からきています。
花岡は初め宇佐八幡を勧請したと伝えられる花岡八幡宮の門前町として発達しました。その勧請の折、一夜にして山が桜花で埋まったことから、花岡の地名が生まれたと言われています。花岡市(いち)は山陽道の宿駅のほか、下松や熊毛、須々万を結ぶ枝往還の起点でもある交通の要衝でした。
江戸時代には御茶屋(本陣)・天下物送り番所、の他代官所が置かれた領内最大規模の宿場町であり、当時の町場は上市、中市、戎町、大国町、西町が続き、街道の北側を上組、南側を下組と呼び、それぞれ4〜50軒の町家が並んでいました。
豊臣秀吉の朝鮮出兵の際には、名護屋城への往復道中で花岡に泊まっています。
花岡小学校の近くにある浄土真宗法静寺は、諸大名の宿舎として利用されました。
その境内にある福徳稲荷は花岡いなりとも呼ばれ、毎年11月3日に狐の嫁入り行列の祭りが行われています。
花岡の街並みは花岡八幡宮の参道口にある金分銅酒造周辺に、切妻妻入りの白壁商家が僅かに残されています。末武上にはもう一軒、永田酒造という酒蔵があったのですが、どうやら廃業していたらしく見つけることができませんでした。
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