現在は長門市の一部となった旧大津郡日置町は長門市の西に接する町でした。日置という地名は全国各地に存在しますが、長門日置は(へき)と読み、古代豪族日置氏及びその部民であった日置部に由来するといいます。この日置地域は北浦最大の穀倉地帯であり、古くから日置市(へきいち)という名の市場町として発展していました。また北浦街道が整備される以前から日置村は黄波戸・津黄・大浦への枝道が延びる分岐点、つまり周辺諸村の中心だったわけえです。
JR山陰本線・長門古市の駅名と共に町の中心部に古市という名の地名が残ります。この古市こそ日置が市場町として栄えた名残であり、当時市屋敷は19軒と規模は小さかったものの、大津郡西部の商業的な中心地でした。
日置市が古市と名前を変えるのは、江戸時代に入ってからの事です。現在の町域は江戸時代には日置上村、日置中村、日置下村と蔵小田村に別れており、日置市は日置上村にありました。ここには萩と赤間関(下関)を結ぶ赤間関街道・北浦筋が通り、日置市は宿駅の機能も持たされていました。しかし藩主毛利公の初入国と領内巡視のために、寛文年間(1661~73)、北浦筋は南奥に入った台ヶ原(古市から南へ約2km)を通るルートに変更され、それと共に台ヶ原が新しい宿場町「新市」となります。そして日置市は古市と呼ばれる事となりますが、寛政5年(1793)に再び宿駅は古市に戻され、しばらくは2つのルートと新市、古市が併存する状態が続きました。
古市では11月15日から3日間、市が開かれ近郊諸村から商人や農民が集まり、特に盛んに取引されたのは農具であり、それはこの一体が古くから北浦最大の穀倉地帯だった事を物語っています。ちなみに冬の間、県内各地や広島方面へと出稼ぎに出て名を馳せた酒造技術者集団、大津杜氏はこの日置の出身です。
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