山口県を代表する景勝地、秋吉台と秋芳洞。共に日本最大のカルスト台地が生み出した自然の造形美である。その秋吉台の玄関口に位置する美祢市もまた県下唯一の内陸都市であり、独特な企業城下町を形成しています。周囲を山々の峰に囲まれていた事に由来する美祢郡の名称。この山間部の小村が明治初期より大嶺炭鉱の工業都市として発展し、さらにセメントの原料となる石灰石の産出量は現在においても全国有数の国内シェアを誇ります。
美祢市は宇部興産や太平洋セメントの企業城下町的として内陸部で最も栄えた町であり、町を南北に縦貫しているJR美祢線(旧国鉄美祢線)ではかつて石炭や石灰石が運ばれていました。そんな企業城下町の中核を成す伊佐商店街には、まるで時計の針が止められてしまったかのごとく、戦前よりももっと古い時代の町並みが残されていました。
伊佐は古くは幣村と呼ばれていましたが、孝霊天皇の御幸の際に「居座村」と改称しそれが転じて伊佐となったとされています。そして町場として発展した伊佐は戦国期ごろより開かれた市場町にはじまります。文禄5年(1596)の記録では、毎月4日・14日・23日に三斎市が開かれていました。江戸時代になると139軒の商工業者が並び、群西部の経済の中心地として栄えたようで、萩藩の代官所(勘定屋敷)も置かれました。その代官所があった場所は現在宇部興産の敷地内となっています。
現在の美祢市中心部には江戸時代に赤間関街道・中道筋や萩往還が通っていましたが、それはは伊佐町からは離れたルートを通っています。しかし主要往還からは離れていた伊佐町には人馬継ぎ立てが常備され宿場町的な機能もありました。
この伊佐はかつて富山と同じ薬売りの町でもありました。江戸時代から始まった「伊佐の薬売り」は島根県から北九州にまで商圏を広げ、最盛期には32軒の薬売業がこの町にありましたが、明治期をピークに大正期には減少をはじめ、現在その姿はありません。
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