福山の西に位置する三原は、古くより河川、海上、陸路の接点として、交通の要衝であり、戦国期には三原城が築かれ、山陽道の宿場町も置かれました。
沼田川をはじめ、西野川や湧原川など大小河川からなる複合三角州に形成された三原は、鎌倉期から干拓によって町場が生まれ市場町へと発達します。
戦国期、小早川氏は東への前進基地として三原城を築城。海にせり出し”浮城”と呼ばれたその城は水軍の拠点ともなります。江戸時代に入り、広島藩福島家の改易後、浅野家の筆頭家老である浅野忠吉が知行3万石で三原に入り、以後三原浅野家の城下町として続きます。
三原城址は三原駅前に残されています。かつては現在の駅舎を含め海に達する範囲全てが三原城でした。しかし三原は山が海に迫り平地が少なく、山陽道も城中を通るほど切迫した状況だった為に、干拓事業がさかんに行われ家中町を含めた城域は徐々に南へ移動していきました。
三原の街並みは三原城の北側、旧山陽道に沿って点在しています。東町には全国に名の知れた銘酒「酔心」の酒蔵がありますが、道路拡張にともない近年まで残された周囲の建物はことごとく取り壊されました。旧山陽道は館町・本町・西町と続きますが、本町と西町にわずかに古い商家が残されている程度です。それらの商家も廃屋か仕舞屋同然となっており、取り壊されるのも時間の問題だと思います。
三原には近年まで5軒の酒蔵がありましたが、現在残るのは東町の醉心山根本店と西町の内海酒造の2つのみ。さらに酔心は店蔵を残し工場は郊外へ移転しました。
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