広島県の中央部、高田郡の東南端に位置し、JR芸備線の広島市と三次市とは時間的にほぼ中間に位置する旧・向原町は周囲を山に囲まれた小さな町です。
JR向原駅の西側、坂と呼ばれる地区に宿場町に似た町並みが残ります。町並みを通る道筋は現在JR線の東側を走る県道37号・広島三次線の旧道で、近世には中筋往来と呼ばれていた道です。この道沿いに町場が発展した時期は新しく、明治期以降になります。
古くから広島と山陰方面を結ぶ往来の一つでしたが、主要な街道ではありませんでした。しかし明治中期にそれまでの2等県道から郡主要道に昇格、道幅も2間(約3.6m)に改修されて、三名筋街道とも呼ばれ始めた頃から、また芸備鉄道(後の国鉄芸備線・現JR芸備線)の開通によって陸上交通の要衝となる明治35年以降から金融機関が集まる在郷町として発展していったのです。
”坂”という地名は谷坂峠の坂に由来すると言われ、その名は南北朝時代の坂郷に遡る古い地名です。この一帯は「坂之原」と呼ばれ、その向いに広がる事から「向井原(向原)の地名が生まれます。
明治中期から陸上交通の要衝として発展しはじめた”坂”地区ですが、それまでは中世から続く三篠川舟運の河港町として栄えていました。この舟運は中世、毛利輝元による広島城建設の資材運搬の為の三篠川改修事業に始まり、その後福島正則に引き継がれ、江戸期の浅野氏の時代に完成しました。この舟運時代の中心問屋街は現在の坂地区の西側に続く、長田高大地でした。
この宿場町にも似た町並みは、明治中期以降の陸路の整備と鉄道の開通によってもたらされた自然発生的な町であるものの、その後も産業構造の変化が無いまま、往時の賑わいを偲ばせるような姿で残ったようです。町の形成時期は明治中期から大正期ですが、現存するのはおそらくその時代の建物であると思われます。
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