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数々の映画のロケ地として脚光をあびた尾道の町並み
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「備後国の玄関」として古くから開けた尾道。広島有数の港町であると共に、海岸線にせまった山の斜面に形成された急峻な家並みと迷路のように入り組んだ路地は、映画のロケで度々使われ、その名を全国に知られるようになります。
尾道発展の礎は、平安時代末期に始まります。当時の尾道は高野山金剛峯寺領で、甲山(甲山町)に開かれた今高野山の外港でした。
高野山から派遣され今高野山の経営にあたった淵信(えんしん)は、強大な権力を誇った高野山の特権を背景に、類い希な経営手腕により一国の守護すら及ばないほどの富を築き、さらに自由港湾都市であった尾道を拠点に海運業を牛耳りながら、さらなる富を蓄積しました。結果、彼の失脚は遅くはなかったのですが、宗教都市でもあった尾道は、時の権力者の庇護のもと発展し、平安から南北期にかけて数多くの寺社が建てられ「西の奈良」とよばれる程になります。
江戸期以降の尾道は備後地方における商業の中心地であり、山陽道の宿場町としても賑わい、広島藩の外港となると尾道奉行が置かれました。
この時期に全国から多くの文人墨客が訪れ、文学の町と呼ばれる礎を築きます。
現在かつての宿場町、港町は尾道の中心市街地となりその姿は失われています。
坂の町尾道の街並み、いや家並みは国道2号線とJR山陽本線の北側の斜面に展開しています。この地域には古刹と住宅が肩を寄せ合うように密集し、迷路のように細く入り組んだ路地で結ばれていますが、伝統的な建物はほとんど見られません。しかしさまざまな映画の舞台となった複雑で立体的な路地と家並みには、多少の演出臭さを感じるものの旅情を誘う町でありました。
尾道の町並み・寺巡りはメタボリックな体にはかなり堪えます。いや生命の危険すら否定できません。町並みの案内や散策コースの標識には、親切に消費カロリーが表示されていましたが、無理はせず、十分な心構えと水分補給が必要です。
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寺町の小径が迷路のように連なる |
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かつての石見街道・県道栗原長江線沿いには古い商家が今も残ります |
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