庄原市に南接し、分水領で宿場町の面影を残す町として知られる上下町と挟まれた総領町は、吉備高原を田総川が浸食した深いV字渓谷沿いに形成された小さな町。
総領という地名はどこかの寺社の総領を意味するものと思いきや、昭和30年に合併した旧・田総(たふさ)村と領家村から1字取ったものだとか。
町域の86%が林野という、こんな耕地に乏しい山間の険しい地形に町場が形成されたのには理由があり、またその歴史は古く中世には田総荘と福山を結ぶ街道沿いに市場町が形成され、江戸期には山陰・山陽を結ぶ連絡道のひとつ結石見街道が通り、広島藩によって宿場町が整備されたのが今に通じる町場の始まりです。
旧市場町から宿場町へと発達した稲草宿では、周辺地域の在郷町として毎月8の日に行われた稲草市はその規模も大きく、上市と下市に分けられていました。現在も上市と下市の名称は集落の旧称として残され往時を偲ばせる町場や郵便局などの行政機関が置かれています。また、稲草・下市にある五雲山竜興寺では33年に一度行われる観音大師開帳のイベントでは多くの参詣客が訪れ、芝居小屋なども出て一ヶ月もの間だ賑わったとされています。
明治になり町を大きく反れて建設された鉄道(後の国鉄福塩線)の開通により、稲草の宿場町・在郷町の役割は失われ町の急速な衰退が始まりました。
もともと平地の乏しい渓谷に形成された街村であるため、国道は旧市街をうまい具合に反れて整備され、旧道とは大きく離れたルートを通り上下へ至ります。
下市地区には宿場町・在郷町を偲ばせる家並みが時代に取り残された様に残り、一方で郵便局が置かれた上市地区にも明治期以降の古い町並みがひっそりと佇んでいました。稲草には大正元年(1912)創業の花酔酒造が、少量生産ながらも地道に今も操業しています。
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