竹原市は三原市と呉市の間に位置し、対岸に愛媛県今治市を臨む瀬戸内海の港町。この竹原市の中心市街の片隅に、国の重要伝統的建造物保存地区に指定されている重厚な古い街並みが残されています。かつて製塩業で富を築いた豪商屋敷の家並みが幾筋にも立ち並び、その周囲に町人の町家が入り組むように立ち並んでいます。
竹原は室町時代頃から港町として栄えましたが、次第に加茂川の土砂の堆積からその機能を失い、港の機能移転を余儀なくされます。やがて江戸時代に入ると、埋め立てによる新田開発が瀬戸内海沿岸各地で始まりますが、竹原の干拓地は塩分が多く耕作には適しませんでした。そこで当時の代官鈴木四郎右衛門は赤穂から製塩技術者を招き、竹原での製塩事業に着手。それはみごと成功します。
以後竹原は広島藩の保護のもとで塩の一大生産地となり、全国へ出荷されました。
しかし明治から昭和にかけ、製塩法の変化や戦中戦後に行われた製塩業の整理により竹原は製塩の町としての歴史を閉じてしまいます。塩田跡地は埋め立てられ、官公庁が置かれる現在の中心市街地へと姿を変えました。
本川によって隔てられた重伝建地区である竹原の街並みには、本瓦葺の屋根が多いことに驚かされます。ほとんどが江戸時代に建てられたもので、厨子二階塗籠造りと虫籠窓に千本格子。黒漆喰の重厚な商家に白壁土蔵のコントラスト。平入りに妻入り、切妻に入母屋と家並みは変化に富み、さらに今に続く現役の造り酒屋「竹鶴酒造」をして町全体が博物館の様相を呈していながらも、現役の町として生き続けています。
ちなみに「日本のウイスキーの父」と呼ばれるニッカウヰスキーの創業者、竹鶴政孝は、この竹鶴酒造の三男として生まれました。英国でウイスキー醸造を学び、大阪の洋酒会社・寿屋(現サントリー)でウイスキー製造に従事していた竹鶴政孝は、品質に対する会社との意見対立により、独立して北海道余市に「大日本果汁」を設立します。ウイスキーは長い年月による熟成が必要で、製造から出荷まで数年を要し、事業として非効率な為に、地元余市産のりんごを加工したリンゴジュースの製造販売で経営を支えた事からその社名となりました。ウイスキーの出荷が始まると社名を変更しますが、ニッカウヰスキーの”ニッカ”とは大日本果実の略称”日果”から来ているのです。
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