東播磨のゆるやかな丘陵地帯にある小さな町、美嚢郡吉川町(よかわちょう)。あまりピンとくる人はいませんが、日本酒にある程度造詣のある方ならば、一度はその名を耳にしたことがあるかもしれません。町の位置は、中国自動車道と舞鶴若狭自動車道が分岐する吉川ジャンクションがある場所です。稲田はその中心部。かつて大坂道と呼ばれ、奥播磨と大坂方面を結ぶ幹線道路だった現在の県道17号線。町役場とその県道を挟んだ北側に旧道筋が残されています。室町期以前から整備されていたこの街道沿いに位置する稲田は美嚢郡における中心地として諸物資が集散する宿場町としても栄え、政治経済の中心地でした。この旧道沿いは今は街村の形態を成した農村集落となっていますが、塗籠造りに虫籠窓や千本格子を備えた伝統的な家並みが連なり、宿場町を偲ばせる町並みがひっそりと残されていました。
山田錦について簡単に触れておくと、時代は不明でおそらく江戸末期から明治あたりか、吉川町の田中新三郎という者が伊勢詣りの際に、かの地で酒造家がほれぼれするような酒米を発見し、これを持ち帰って栽培した。伊勢山田の酒米だった事から「山田穂」と名付けられた。山田穂は背が高く穂が大きいので酒造りにはこの上なく適した品種でしたが、倒れやすく非常にデリケートであった為に非常に造りにくい面もありました。そこで試行錯誤の末の大正12年に兵庫県立農事試験場で、山田穂を母、短稈渡船を父として人工交配を行い、生まれた「山渡50-7」を発展させた「山田錦」が昭和11年にようやく誕生したのです。
山田錦のふるさととしては他に現在の神戸市北区山田町藍那多可郡中町説があり、この吉川町の説は資料が乏しく、風説の域を出ないと最近言われています。そこで、町は先手を打って「山田錦」のキャンペーンを張っています。真相はいかに?
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