伊丹と言えば知る人ぞ知る摂津地域における酒処であり、「丹醸」と呼ばれたその多くは江戸に出荷された。しかしそれも灘五郷が台頭し全国を席巻する以前のはなし。
伊丹は古くからの交通の要衝で、京から西国へ通じる西国街道(山陽道)大阪へ通じる伊丹街道、丹波へ通じる丹波街道(通称くらがり街道)などが集中し、しばしばその争奪をめぐって争いが繰り広げられた。鎌倉期にこの地を支配した伊丹氏は織田信長によって追放され、家臣の荒木村重が伊丹城に入り、城を「有岡城」と改め城下町の整備を行います。有岡城址は福知山線伊丹駅前の伊丹1丁目・2丁目・宮ノ前にかけてあり、その大部分は明治期の鉄道建設によって破壊されていまいましたが、石垣などが駅前ロータリーからショッピングモールにかけて残されています。
この中世城下町は後に商業都市「伊丹郷町」へと発展していきます。江戸期を通して伊丹郷町は公家の近衛家の領地として特権を有し、町の有力な酒造家から選ばれた役人が町政を担当していました。江戸期に始まった酒造りは伊丹の基幹産業となり、酒造家は85人、酒造設備や原材料など酒造関連産業で町は賑わい、最盛期の伊丹郷町は2,500軒の町家と人口10,000人を抱える大都市へと成長します。元和3年湯山街道の宿場町に指定。
ところが、幕頃から爆発的に発展しはじめた灘五郷の酒蔵に圧倒され、伊丹の酒造りは急速に衰退。さらに明治10年、現在の東海道本線が海岸沿いに建設された為に、内陸部の伊丹は近代的な発展から取り残されることになります。
伊丹市中央に建つ、商家をモチーフにした瀟洒な近代社屋が天文19年(1550)創業の小西酒造です。小西家は酒造業を中心に輸送や販売のグループを形成。さらに電気産業や皮革、そして医療や鉄道経営まで手を広げ伊丹の発展に尽力したこの地の盟主です。この小西酒造本社ビルの裏手に2軒の酒蔵があります。1軒は大手柄酒造。戦時中に村岡家を筆頭に5軒の酒蔵(村岡家、岡田家、鹿島家、石橋家、田中家)が合併して誕生。そしてもう1軒が伊丹老松酒造で(武内家、武内家、新田家)が企業合同して誕生しました。江戸時代において有力酒造家24家は名字帯刀を許され、幕府や宮中に納入する「御免酒」を造り続けていました。その格式の高さが灘の庶民酒の台頭により衰退する理由になったのかもしれませんが、幾度も苦労を乗り越え今なおこの地で酒を醸し続けるプライドを強く感じました。そしてそれは、阪神のベッドタウンとして高層マンションが次々と建設される足もとに、健全と残る伝統的な旧家、駅前モールに整備された白壁商家風のモールなどからもなにか通じるものがあるような気がしました。
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