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  室津
むろつ
 「室津千軒」と言われた海の宿場町
 兵庫県揖保郡御津町室津

 構成:商家 ■ 駐車場:港湾P
 
 

姫路市網干区と相生市の中間、リアス式海岸によってつくられた入江の一画に、かつて「室津千軒」と謳われた海の宿場町室津があります。

室津は古くから天然の良港として知られ風待ち、潮待ちの船で賑わいました。
大阪湾から姫路近くまで、播磨灘に面した海岸線は延々と砂浜が続き、室津までは船泊に適した入江がありませんでした。 さらに造船技術の進歩による船舶の大型化が別の問題を引き起こし、室津は空前の繁栄を手にします。

江戸時代になると山陽道とならび瀬戸内海航路も西国大名の参勤交代で使われるようになります。しかし播磨灘は遠浅でかつ荒れるために、大名が乗る大型の御座船が座礁、難破する事故が相次ぎました。さらに終着地である大阪湾も遠浅のため、大型船は湾の奥まで入れず、湾の外から小舟に乗り換えて上陸しなくてはなりませんでした。そこで参勤交代の大名は播磨灘手前の室津湊で上陸しそこから陸路で大阪へ向かう道筋を選びます。参勤交代の家臣は1000人を越え、80艘あまりの船団の規模からなります。それがこの港町へ押し寄せてくるのですから室津には本陣が6軒もあり、それでも足りない場合は回漕問屋と海産物問屋の屋敷が充てられたといいます。

さらに室津は、 朝鮮通信使寄港する国際港でもありました。500人近くにのぼる一団は公設の御茶屋以外に寺院にも分宿し、姫路藩主は接遇のためにしばしば室津へ足を運びました。こうした室津の特殊性に加え、河川を持たず物資の集散地と成り得なかった事が、後の時代に大きく衰退していく要因となりました。
幕末になると、室津の閑散ぶりや朽ち果てた商家などが記録に残されています。

室津に残る江戸期の建物は回漕問屋「島屋」の旧佐藤家を資料館にした室津海駅館
と海産物問屋「魚屋」の旧豊野家を改装した室津民俗館で、本陣は1つも残っておらず、またこれら2軒の商家以外にもきわだった家並みはありません。
室津の町並みは山と海に挟まれた狭い土地に商家や旅籠がひしめき、かつてこの場所に6軒の本陣と1000人以上の大名一行を収容できたとはとても想像が付きがたく、往時の喧騒ぶりの凄まじさを考えると今は静かな漁村に、時代の栄枯盛衰の激しさを感じました。