|
400年の歴史を持つ木村酒造場
|
山陰道と山陽道を結ぶ但馬街道、近世に生野銀山が開発されて以降は生野銀山街道と呼ばれたこの要衝の地に、中世の名城竹田城(虎臥城)跡が山頂から見下ろす竹田の町があります。
この竹田は戦国時代の幕開きとなった赤松氏に始まり、赤松氏に終わった場所でもあります。室町幕府六代将軍足利義教は幕府の権力強化を目的に同族の足利氏や有力守護大名を次々と殺害。その手は幕府の要職に就いていた赤松満祐にも及びました。嘉吉元年、赤松満祐は将軍義教を京の自邸に招いて暗殺し挙兵します。しかし赤松氏は幕府追討軍である山名持豊の軍勢に敗れ自害しました。
その後の「応仁の乱」で弱体化した幕府内部は分裂、戦乱の世が始まります。
但馬守護山名持豊は山陰・山陽を結ぶ戦略的要地であるこの竹田に13年を費やして竹田城を築城、家臣の太田垣光景に守らせます。しかし羽柴秀吉の但馬征伐によって落城。当時再興して竜野城主となていた赤松政秀の子広英が竹田に入り最後の竹田城主となります。しかし赤松広英は関が原の戦いの土壇場で、西軍から東軍に寝返るも鳥取城攻略の不手際を咎められ自刃。竹田は幕府の天領となり竹田城の歴史は終わります。
残された竹田の町は、山陰道に接続する但馬街道(播胆道)、竹田〜豊岡間を結ぶ円山川の高瀬舟舟運による水陸交通の要衝として発展します。
また江戸時代より「竹田椀」の生産も盛んになり、その技術は現在の特産である竹田家具に受け継がれています。
宿場町竹田は幾度もの大火によって歴史的な建造物はほとんど失われてしまいましたが、かつての武家町であった竹田駅西側の寺町には城下町を偲ばせる風景が残されています。線路の東側、旧街道筋には宿場町特有の桝形が残り、明治・大正期以降に建てられたと思われる家並みが宿場町のたたずまいを今に伝えています。
その中でひときわ目を引く建物が、本瓦に本卯建を上げた重厚な商家・木村酒造場です。木村酒造場は江戸時代初期に創業の400年以上もの歴史をもつ旧家ですが、1979年に日本酒不振の為醸造をやめて以来、姫路の龍力酒造に製造を委託していました。しかし近年、蔵の14代目によって少量ながら醸造を再開、周辺酒蔵のバックアップにより地酒「虎臥城」が再興されています。
|
|
|
中世の武家屋敷町・寺町 |
|
但馬街道竹田宿の町並み |
|