うすくち醤油と素麺で知られる龍野の町は、龍野藩脇坂家5万3000石の城下町として200年続き、現在も龍野さくら祭りの主役を脇坂家当主が務めます。
関ヶ原の戦い後、姫路城主池田輝政の所領となった龍野には城代が置かれます。
その後、本多政朝が5万石で入封し竜野藩が成立。続いて小笠原長次、岡部宣勝、京極高知と代わり、最後に信州飯田から脇坂安政が入封して、以後10代200年続いて明治を向かえます。脇坂家はもともと賤ヶ岳七本鎗の一人として有名な豊臣大名でしたが、関ヶ原の戦いで家康に寝返り、実子があるにも関わらず、堀田政盛の二男を養子に迎えて幕閣に急接近、譜代を願いでてやっとの事「譜代格」の大名となりました。
さて竜野城址の周辺には家老門や武家屋敷が残ります。城下町は碁盤の目状にはなっていませんが、複雑ながらも整頓された計画的な区画で、古い伝統的な商家や明治大正期の洋風建築が随所に残り、所々で醤油の香りが立ちこめています。また揖保川沿いは旧街道筋であり、ここには宿場町の佇まいも残されています。
龍野の町には江戸時代から昭和初期にかけて約200年間にわたる、各時代ごとの建築様式が残されているといいます。
以前はアーケードに覆われていた商店街から無粋な建造物は撤去され、アスファルトは石畳に代わり、訪れるたびに街並み全体が日々修景されていました。
竜野醤油の起源は不明で諸説がありますが、もともと酒造業が盛んな地でしたが、灘の酒の発展と揖保川の水質が酒造りに合わなかった事から醤油業へ転換したと言われています。
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