明石から西に続く長い砂浜の海岸線、その一帯を魚住といいます。明治よりの町村合併によって地名が複雑になっていますが、魚住と大久保を冠する地域がそれにあたります。
8世紀ごろに奈良の高僧行基が摂播5泊の1つとして開いた「名寸隅なきずみ」という港町に始まる魚住。
江井島から魚住にかけての一帯は300年以上前から酒どころであり、神戸・灘の酒に対して「西灘」と称されていました。
良質な酒米、良質な井戸水、冬場に吹き付ける冷たい季節風が酒造りに適した地。
一般に播磨灘で産する米は播磨米と呼ばれていましたが、明石領内で穫れる米は大極上であった為に明石天守米と呼ばれていました。
江戸時代には、明石領内に61軒もの酒蔵があったと言われ、現在も魚住・大久保地域だけでも10軒以上の蔵が酒造りを行っています。
播磨灘に臨む高台に建つ、江井ヶ島酒造は清酒の他にウイスキーも醸造する大手の酒蔵で、明治21年に江井島にあった酒蔵27軒が合併して誕生しました。
ここから東の赤根川を越え、江井ヶ島駅へ向かう途中に小さな酒蔵があります。
太陽酒造は江戸末期の創業で、今も伝統的な道具を用いた方法で酒造りを行い、年間の生産量はわずか110石(1升瓶1万1000本)という非常にレアな酒蔵です。
この他にも半径1km以内にいくつもの酒蔵があります。中には廃業してしまった蔵もあるようですが、また日をあらためて魚住の酒蔵めぐりをしたいと思います。
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