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児島半島東岸に位置する児島下の町。古くは鴻ノ下村と呼ばれていました。鴻八幡宮門前の海岸は柘榴浜(ざくろがはま)と呼ばれ、熊野本宮の御輿が揚がった場所が鴻八幡の松原参道になったという言い伝えが残ります。
下村はこの地域の他の村同様に、塩田と干拓新田による綿作が主な産業で、江戸期には織物業や酒造業を営む有力商人も現れました。また讃岐金毘羅参詣や四国遍路に加え、当地の瑜伽山参詣の渡し場としても栄え、参詣客で賑わいましたが、後に隣接する田之口村も同業に進出し、参詣客の奪い合いが始まります。
しかし明治になると瑜伽山参詣は減少、船舶の大型化・機動化によって港町の衰退も始まりまり、国鉄宇野線の開通によって町の終焉は決定的なものとなります。さらに製塩業も落ち込んでいくなか、下村は下村紡績所が設立し本格的な繊維産業へと踏み出すとともに、下村港は繊維関係の原料・移出入の港として生き残りを計ります。
国道沿いに瑜伽山参道口の鳥居があります。その周辺に厨子二階入母屋造りの町家が多く立ち並んでいます。さらに細い路地に入ると、ナマコ壁の土蔵が建ち並ぶ一区がありました。
ここから少し離れた内陸部の県道沿いにも重厚な蔵屋敷がいたるところで見られます。いずれも繊維業全盛の時代に建てられたものではないかと思います。
街並み見学などで訪れる人などまずいないであろう、この小さな一画に建つ家々は手入れが良く成され、街並みが整えられている感じがします。
国道、旧道ともにビルや工場が建ち並び、それらに挟まれる形でひっそりたたずむ
このような街並みを偶然見つけるのも旅の醍醐味の一つです。 |
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