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妹尾
せのお
 金比羅往還が町を貫く、妹尾戸川氏1500石の陣屋町
 岡山県岡山市南区妹尾
商家・町家・土蔵・擬洋風建築  なし  JR宇野線(瀬戸大橋線)妹尾駅
 
 

岡山駅からJR宇野線(瀬戸大橋線)で3つ目の駅に妹尾(せのお)の町があります。この難読地名でもある妹尾は、古くは瀬尾と呼ばれていました。

妹尾を調べると、中世の妹尾氏を避けては通れません。妹尾氏の祖先は大化の改新で知られる、かの有名な中臣鎌足だと言われています。鎌足はこの功績で朝廷より「藤原姓」を賜って、ここに藤原氏が始まりますが、鎌足の一族から卜部(うらべ)氏が別れます。

時を経て、卜部康遠は備前・備中・備後の領主となって、備中瀬尾城を本拠とします。そしてこれ以降「瀬尾氏」を名乗りました。しかし次の代の瀬尾兼門は源氏方に着いたことにより、平治の乱で敗れて賊軍に。これにより時の鳥羽上皇によって瀬尾姓は禁じられます。

しかし、瀬尾兼門の妹は白河天皇の寵愛を受けて、天皇の子を生みます。生まれた子は朝敵瀬尾氏の血を引くということで、平家の手で育てられ、平家の有力武将の一人、妹尾兼康となります。廃された瀬尾姓を「妹尾」と替えて名乗ったことに由来するといいます。

妹尾は中世瀬尾城があったとされる場所です。町の中央を東西に金毘羅往来が通りますが、古くはこの近くまで海が迫っていました。妹尾氏の祖、卜部康遠の支配した時代から干拓による新田開発が盛んに行われていたといいます。もっとも妹尾あたりは江戸期を通して浅瀬が広がり、漁業中心の集落だったようで、西磯・東磯と呼ばれていました。

町の東側に建つ啓運山盛隆寺。その入口に「妹尾千軒皆法華」という石碑が建つ。江戸時代の妹尾は宇喜多氏の支配の後、庭瀬藩を経て旗本戸川安成の領地となります。戸川安成は本家の庭瀬藩から独立した分家で、本家はその後無嗣改易となりますが、妹尾戸川家は直参旗本として明治まで続きました。

この戸川達安の妹は宇喜多氏に嫁ぎますが、若くしてこの世を去ります。これを悲しんだ達安と母は、3千余坪の土地を寄付して日蓮宗の盛隆寺を建立。古くよりこの地は真言宗で占められていましたが、領主戸川氏は日蓮宗への改宗者の初年度の年貢を免除。これにより「妹尾千軒皆法華」と呼ばれる大改宗が成立したのです。

妹尾陣屋はこの盛隆寺の近くにあったと言われます。そして東西に走るメインストリート沿いに白壁やなまこ壁の伝統的な商家の町並みが残されています。漁村集落とはとても思えず陣屋町に発展した在郷町の様相です。また建物の多くは明治・大正期以降に建てられたものと思われます。

 
 
 
 
 
裏路地にひっそりと残る旧・妹尾郵便局