総社という地名は全国に数多く見られます。これは、旧国内に数多く存在した神社を
一箇所に勧請したもので、数百にも及ぶ神社を国司が毎年巡拝することが困難であったための措置であり、岡山県総社もまた古代備中国324社をして生まれました。
古くは八田部と言われていたこの地域は、戦国時代頃に「総社宮」と呼ばれ、明治維新後に総社という呼び名が一般化したものです。
総社の中心部は総社宮の門前町にして城下町松山(高梁市)へ通じる松山街道の宿場町的性格を帯びた在郷町として発展、多くの商工家が軒を連ね、現在の商店街筋へと受け継がれています。この商店街の南側の一部はかつて井出市場と呼ばれ、浅尾藩の陣屋町支配の商業地として市場役人が置かれていました。
1万石の譜代小藩である浅尾藩とは、豊臣秀吉の時代に1万1000石の大名だった蒔田広定が、関ヶ原の戦いで西軍に加担した為に改易されるものの、浅野幸長の執り成しによって許され1万石をもどされます。2代定正の時に弟、長広へ3000石を分知し交代寄合の旗本となりますが、12代広孝が江戸市中警備の功により、1万石の大名へ復帰、浅尾藩が立藩しました。豊臣家臣で本来は外様でしたが、一度旗本へ降格し、それからの昇進であるため譜代大名となったのです。蒔田家はその後も京都見廻役などを務め、幕末においても幕府の任務に携わった為に、浅尾陣屋は長州藩主の襲撃によって倉敷代官所と共に灰燼に帰したのです。
総社2丁目の商店街筋に僅かに残る伝統的な商家建築の家並み。その一画に建つ現在歴史民俗資料館として公開されている、明治43年建築の旧総社警察署の洋風建築があまりレベルの高くない総社の町並みにひときわ花を添えています。 |