玉島は倉敷市最西端、高梁川西岸の地域で山陽新幹線の新倉敷駅が目印です。
この一帯は江戸時代に備中松山藩(高梁市)によって新田開発された場所で、玉島の中心部は備中松山藩の外港として整備され、200棟にも及ぶ土蔵や蔵屋敷が建ち並び北前船が出入りするほど栄えた港町でした。
万治2年(1659)備中松山藩主初代水谷勝隆は大森元直を新田普請奉行に登用し、高梁川右岸に玉島新田を造成。寛文10年(1670)二代勝宗は柏島(玉島柏島)の北方に広がる干潟を開発し阿賀崎新田を造成します。
さらに内陸部に位置する備中松山藩の年貢や廻米、諸産物を高梁川の舟運で河口まで運び、千石船に乗せ替えて大阪や諸国へ運ぶための港町を建設。これが新町で、現在の玉島中央町にあたります。
玉島に残る古い街並みは、かつての新町、今の玉島中央町一丁目の新町筋と里見川にかかる昭和橋を越えた玉島阿賀崎町・幸町にそれぞれまとまっています。
新町筋の商家は本瓦になまこ壁に虫籠窓の重厚な商家や土蔵が建ちで、全てが手入され非常に良い状態で残されています。ただし連続性はありません。
これらの商家は現役の企業・法人によって保存が行われているものと思います 。
一方の阿賀崎町は老朽化が目立ちますが生活感があり、明治大正期の建物が混ざったノスタルジックな雰囲気が漂っています。新町筋とは違い現役の下町風の街並みが広範囲に連続しています。
それぞれの街並みの中心には現役で操業している造り酒屋がありました。
玉島新町はやがて川上から運ばれてくる土砂の堆積によって、大型船の寄港が難しくなり衰退していきましたが、近年水島臨海工業地帯の発展にともない近代的商港へ変わりつつあります。港湾地域は市民の憩いの場として公園や緑地化の整備が行われています。こうした機会に文化的遺産であるこれらの街並みの保存にも目が向けられる事を願います。
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