伊予郡中の町並みの中心・一際目立つ山惣商店
寛永11年(1634)松山藩主蒲生忠知が参勤交代の途上で急死し、蒲生家は無嗣改易となり松山藩は廃藩。松山藩の領地は大洲藩の管理地となります。この時、大洲藩のかかえる飛地領と松山城下に近い伊予郡との交換を幕府に申し出て許可が下り、現在の伊予市及び伊予郡は大洲藩領となります。それ以来伊予郡地域は「御替地」と呼ばれていました。
それまで大洲藩では喜多郡・浮穴群の所領を「郡内」と呼んでいたため、後に伊予郡は「郡中」と呼ばれるようになりました。
やがて「郡中」という名の地域は時を経るごとに縮小、現在の伊予市の中心部にある、灘町、湊町、三島町に地域限定化され、その後その三町は郡中三町と呼ばれるようになります。
郡中港は大洲藩によって整備された港で、旅客のほか物資の集散地として藩の重要な港でした。郡中港は明治から昭和にかけても、幾度も改修工事がおこなわれ現在の伊予港の姿になります。また松山街道が通っていたため、街道沿いにも商家が連なり在郷町の様を呈していました。
かつて郡中三町と呼ばれた 湊町・灘町・三島町を貫く松山街道の旧道は伊予市郡中商店街のメインストリートに引き継がれ、道沿いには往時の面影を残す商家や町家が点在しています。この通りは一部一方通行に制限され道路はブロック舗装、各旧家には家主と建物の説明が表示されており、街並みと景観保存整備が行われていました。
(2007.8)
大正期築の宮内小三郎商店は酢醸造店を経て、現在は酒販売店
伊予市で唯一残る酒蔵・徳本酒造店は江戸時代後期の築で初めは醤油醸造を行っていた
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