平地の乏しい山岳部や山が海に落ち込む海岸部などでは、切り土・盛り土で平地を築き、石垣を積み上げて家屋や田畑を造成してきました。特に外洋から強風が吹き付ける立地や台風の通過地域では軒高く石垣を積み上げた集落があります。
愛媛県の旧・西海町にある外泊集落もその一つで、「石垣の里」として知られています。
アルファベットの「E」の字に似た船越半島の北西端。リアス式海岸が創り出した入江の奥の山の急斜面に、石垣を積み上げた集落が山の中腹まで形成され、その姿は城郭の様相を呈しています。高く積み上げられた石垣の中で、家々の台所の付近だけ石積が切り欠かれているのは、ここから海を見やり出漁の可否や、漁船の出帰を見守るためらしいです。
古くは外海浦と呼ばれたこの地域は、リアス式海岸が創り出す天然の良港によって、古くから漁業が盛んでした。しかし台風や季節風への対策から、大半の集落は船越半島の北・東側に集まり、なかでも福浦は江戸期から地域中心地で藩の遠見番所や船番所、高札場などが置かれていました。
この外泊の歴史はそれほど古いものでは無く、幕末から明治にかけて中泊地区から分村して生まれた集落です。
現在の外泊は足摺宇和島国立公園の一画をなす船越半島・景勝地の中にあり、町の重要な観光資源として整備が進む一方で、過疎化や住民の減少に歯止めが泊まらない様子です。
石垣の通路や階段には、かつては柵などなかったと思われますが、観光地や公園などで見られるコンクリートの丸太風の柵が設けられ、石垣も古くからのそれとは明らかに違う質感・規格のもので補修されていて、やや演出臭が鼻に付いてしまう点が惜しまれます。
一方で、主を失い取り壊された住居跡地や放置された田畑など、石垣に囲まれた跡地が目立ち、「遺跡」の様相も呈して郷愁を感じさせます。
江戸期までは外海浦と呼ばれたこの半島地域は、明治になって新しい時代の夜明けとなったあとも、藩政期の利権を引き継いだ庄屋が、民選制となった後も不正により無投票で民選庄屋として留まったことをきっかけとして、独立分村した西外海浦村が西海町の前身です。海岸に沿って半島を一周する県道は自衛隊の協力で完成、観光道路として建設された半島を縦貫する「西海有料道路」は現在無料開放されています。
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