「内子町は山の中」と古くから呼ばれますが、まさにその通り。松山自動車道の
伊予ICから1区間である内子五十崎ICまでは長く、道は長い勾配を上り続け、いくつものトンネルを潜り、谷に架かる橋梁をいくつも越えて辿り着きます。
周囲を山に囲まれ町域のほとんどが山地である内子の町は、陸の孤島かと思いましたが、実は四方から水運と陸路が交差する交通の要衝で、古くから市場町として賑わってたのです。
江戸時代に大洲藩によって在郷町に指定され商業の町としてさらに発展を続けます。
幕末ごろから商業の中心は六日市地区に移り、八日市地区は木蝋生産の町に変わっていきますが内子は生蝋と和紙の生産で繁栄する事になります。しかしやがて内子の製蝋業は洋ローソクの前に衰退し、製紙業の方が町の中心産業となっていきました。
重伝建に指定されている八日市護国地区は、幕末から明治にかけて建てられた重厚な塗籠造りの街並みが残り、製蝋業で財をなした芳我本家、上芳我家邸を中心に黄漆喰となまこ壁が特徴の内子独特の街並みが続きます。
内子の町は重要伝統的建造物群に指定されていますが、観光客に媚びず住民が普通に生活している、生きた街並みでもありました。
(2007.8)
内子町の八日市護国地区
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