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栄町港交差点付近の紺屋
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宇和島は古くは板島と呼ばれ、中世に築かれた宇和島城の前身である丸串城を中心とした城下町が歴代藩主によって整備され今の姿となりました。
当初宇和郡の政治経済の中心地は現在の宇和町にありましたが、徐々にその機能は丸串城下へ移されていきます。
元和元年(1615)仙台藩伊達政宗の子秀宗が大坂の陣の功績により10万石でこの地の入封。板島を宇和島と改称し宇和島藩が誕生します。2代藩主伊達宗利の時に跡継ぎを巡るお家騒動により吉田藩3万石を分知。これに不満を持つ宗家と吉田藩の確執は幕末まで続きます。宇和島藩は独立した藩として江戸幕府によって成立しました
が、宗家仙台藩はこれを認めず、あくまで支藩として扱った為に伊達宗家との確執も絶えませんでした。
明治の廃藩置県により、伊達家の家臣はあいついで宇和島を去ります。その為武家屋敷の跡地には役所や学校、工場が建ち並び宇和島城下の街並みは早い時期にその姿を消していきました。また宇和島は先の戦争で、愛媛県下最大の9回にも及ぶ空襲を受けている為、城下町を偲ばせる町並みは壊滅的に失われてしまいました。
現在、天赦園近くの佐伯町などに明治創業の酒造業・福島商店の酒蔵といくつかの商家を中心とした古い街並みが残されています。
(2007.8)
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佐伯町の町並み |
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