今では想像できませんが、かつての引田は「讃一の大湊」と呼ばれるほど栄えた、大きな港町でした。瀬戸内海を挟んで大阪や近畿方面に近かった地理的要素により、讃岐における物流の中心地としてだけでなく、軍事的な要衝としても古くから重要視され、中世にはこの地方において最初の城とされる引田城が築かれています。
また律令時代には南海道・讃岐6駅の最初の宿駅でもあり、引田の歴史の古さを物語っています。
引田は讃岐三白と呼ばれた(塩・砂糖・綿)のうちの塩と砂糖の産地でもあり、醤油醸造も盛んに行われました。
引田港近くの小海川沿い、誉田八幡宮の門前地区には紅殻色の土蔵街が目を引く
「かめびし醤油」が今も伝統の味を守り続けています。そしてこの「かめびし醤油」周辺には引田の庄屋を務めた「日下家」の屋敷などを始め、古い街並みが数多く残されています。
また町役場(現・引田支所)の裏手の参道沿いにも数百メートルに渡り、断続的ではありますが往時の面影が見られました。
(2006.8)
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