「四国の道はすべて金比羅へ続く」有名な言葉ですが、こんぴら五街道呼ばれる道が四国を縦横に走っていました。街道や海辺には参詣客の為の常夜灯が設置され、瀬戸内海航路の灯台の役目も担っていたとされています。
一方で江戸時代にこの地を治めた生駒氏によって金毘羅門前への移住促進政策がとられ、商人、役人、に続いて大工や鍛冶職人などさまざまな職人が移り住み門前町が整備されます。
こんぴら五街道の一つ阿波街道の終点「阿波町」は鍛冶や金物の職人の町で、現在も土蔵造りの街並みがわずかに残っています。
物見遊山が禁じられた時代に唯一許された参詣。金毘羅門前は遊郭や歌舞伎座など次第に総合娯楽地へと姿を変えていき、幕府当局と幾度も係争を起こします。
現在ある最古の旧金毘羅大芝居は移築復元されたものです。古い街並みは参道入口から石段にいたる区間に集中しています。
「こんぴら」はもともと仏寺であり金毘羅大権現と呼ばれていましたが、明治の神仏分離令によりその姿、名称を幾度も変え、神社としての金刀比羅宮にされてしまいます。最盛期の自治権や数々の特権を奪われ、参詣客のにぎわいも無くなりましたが、その後自力で神社の発展と門前町の維持を成し遂げ再び「こんぴらさん」を復活さることに成功。
やがて鉄道の時代に入っても「讃岐の鉄道は琴平に通ずる」といわれる様に、香川県内の鉄道はすべて琴平まで敷設され多くの参詣客を運びました。
(2006.8) |