讃岐に入った高松藩主・松平頼重はこの地方で古くから影響力を持った神社勢力である大内郡総鎮守水主神社(大内町)に対抗する勢力として、白鳥神社をこの地に再興しました。
初代神官には国学者でもあり、かの水戸黄門こと水戸光圀の師でもある北野社神官、ト部兼古(猪熊千倉)を京都からわざわざ招きいれています。旧道から少し奥まった場所に現存する猪熊邸は県の文化財に指定され一般公開されています。
白鳥神社は東代々高松藩主の寄進による灯篭が28基も立ち並ぶ東讃随一の神社として最もにぎわいを見せ、門前には多くの旅籠や市が立ち並び、町が発達したのです。
幕末ごろには信仰の賑わいも失せましたが、明治に入ると手袋製造で再び町は活気を取り戻し、現在も全国有数の生産量を占めています。
白鳥の町を東西に貫く志度街道が白鳥神社門前で交差する付近に、古い町並みが残されています。本瓦で重厚な造りですが、大正期以降のものと思われますが、旧道沿いには厨子二階の商家も見られます。
(2006.8)
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