土佐市は高知市の西に隣接する人口3万人の町で、県下最小の市でもあります。土佐市から北へ約30km、愛媛県と接する土佐郡土佐町という同名の町がありますが、こちらの方が先に成立しています。富山県の高岡市があった為かどうかは分かりませんが、昭和34年の合併・市制施行で土佐市と改名しました。
仁淀川の右岸に開ける平野部が、同じく市内を東流する波介川に接するあたりの丘陵上に中心市街地の高岡があります。高岡という地名はこの地形に由来します。また高岡周辺の平野部は縄文時代には海底だったといいます。
この一帯には古代より高岡郷の名があり、中世には荘園化して高岡荘と呼ばれていました。戦国期になると長宗我部氏の市場町として発展し高岡市町(たかおかいちまち)と呼ばれ始めます。さらに江戸時代になると土佐藩の高知城下に近かった為に、家臣は置かれず藩の直轄支配となり、高岡町には二人の庄屋が置かれました。
中世から中村街道沿いに発展していた高岡町ですが、本格的に発展するのは江戸期になってからの事で、土佐藩家老で自ら代官として藩政改革に取り組んだ野中兼山によって、まず仁淀川から「鎌田井筋」と呼ばれる水路が引かれ、新田が次々と開発されていきました。中世からの市場町の基礎があった高岡は商品経済の拠点として整備されます。この時期、後背地では土佐藩のよって和紙製造が半ば強制的に奨励され、今村一族による紙屋、豪商が成長。鰹漁、亀蔵、鰹節製造、回船業などを営む商人を輩出しました。当時の人口は約3,800人。中村街道と仁淀川水運の水陸交通の要衝として賑わい、藩内6大在郷町のひとつに成長しました。
高岡町は中村街道に沿って東西に並ぶ立町(北町36・南町26)と中央から南の河港に延びる横町の丁字形に形成されています。
現在は旧中村街道に沿って東西に延びる旧立町を踏襲した商店街が残ります。中村街道は始め町の南側をバイパス、さらに現在町の北側を大きくバイパスした国道56号線の新道によって、中心市街は車も少なく落ち着いた雰囲気を漂わせています。町の中に点在する漆喰に塗り込めて、海鼠壁や水切り庇を施した重厚な商家建築。連続性は無いものの、実はそれらの商家の間に連なる店舗もまた、看板建築を施した様式の商家でもあり、その増改築部分を取り除けば、かなりのレベルの古い町並みが姿を見せるのではないかと思います。
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