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阿波半田
あわ はんだ
 古くは半田漆器で栄え、現在は半田素麺の町
 徳島県美馬郡つるぎ町半田字逢坂 【旧・美馬郡半田町】2005年
商家・町家・土蔵  なし  JR徳島線・阿波半田駅
 
 

半田町は吉野川に支流半田川が注ぎ込むあたりにある町で、古くは「八田山」と呼ばれ、それが転訛して半田となったようです。

市街地は半田川の右岸の河岸段丘上とJR徳島線阿波半田駅周辺に分かれています。
現在の半田町は手延べ素麺の産地として知られていますが、かつては漆器茶碗”半田塗”で全国にその名がありました。共に江戸時代から盛んになり、地元の旧家・敷地屋家を中心とする半田商人によって産業化され、全国へと販路を広げたのです。

半田塗の起こりは江戸時代後期の享保20年(1735)頃と言われ、奥地山間部の木地師による原材料の調達、及び後背地から産出される漆や塗料など、漆器生産に適した土壌があり、これに目を付けた敷地屋利兵衛によって産業化され、九州から江戸まで全国に販路を広げていきます。しかしその後の発展は平坦なものでは無く、幕末に一時衰退。明治に入って敷地屋の努力により復活しますが、次第に敷地屋の手を離れて分立化、零細化が急激に起こり、それがかえって漆器産業自体の衰退を招く結果になり、やがて完全に姿を消します。

それとクロスするように漆器業者は素麺生産へと職を変えていきました。半田素麺は漆器同様、江戸時代にその製法がもたらされ、冬季の気候風土が素麺生産に適していた事もあって地場産業として定着しますが、急速に拡大するのは昭和に入ってからの事。三輪素麺よりも太く、腰があることが現代人の嗜好に合ったことが人気を博し今に至ります。

大正3年に国鉄徳島線が開通する前は、吉野川水運によって移出されていました。半田村の河港である小野湊から南へ山々を越えて東祖谷山村へ至る街道沿いの逢坂、木之内などに商家が並び町が形成されていき、ここに地場産業の工場も集まっていました。現在残る伝統的な様式の家々はさまざまな様式で統一感は無く、また連続性もありません。地場産業の栄枯盛衰の末の町の姿がそこにありました。

 
半田町の中心・逢坂地区
 
半田駅前周辺の町並み(中薮地区)
半田駅近くに立つ旧家の屋敷