徳島県の北東部に位置し、海峡を隔てて淡路島に接する、四国で一番京阪神に近い
町・鳴門市。古くから四国への玄関口として発展し、古代官道の南海道もまたこの撫養から四国へと入り、中世以降は吉野川物流の積出港としても栄え、やがて阿波国第一の港となりました。江戸時代には阿波へ封じられた蜂須賀家26万6000石の徳島藩主導による製塩事業「斉田塩」によって大きく繁栄、多くの商家が集まる在郷
町・商業都市へと発展しました。
この鳴門市中心部で往時を偲ばせる家並みが残る地域が、「撫養」を冠する北浜・林崎と南浜・斉田の地区で撫養川を境に東西に分かれているのですが、今回は時間の関係で南浜地区を歩きました。この地区の町並みはJR撫養駅と金比羅前駅のある木津地区にかけての旧道沿い残されています。
藩政時代の撫養は、町名では無く、近隣の村浦を含めた「撫養24ヶ村浦」と総称されていました。関ヶ原の戦い後に阿波国に入封した蜂須賀家政が国内に築いた9つの支城「阿波九城」の一つ岡崎城の城下町として始まります。しかし岡崎城は幕府の一国一城令によって破却される事となり、かわって平野部に藩庁としての御屋敷が設けられました。この御屋敷は藩主が淡路へ渡海する際の休憩所としてのほか、四国の玄関口の関所の役目も果たしました。町の中心は商家の集まる、林崎・斉田・南浜(四軒屋)で、今とほぼ重なります。斉田では入浜式の塩田が開拓され、「斉田塩」のブランドで他国へ移出され藩の重要な財源となりました。この広大な塩田を埋立てたのが現在の鳴門市の中心市街北側の地域です。
阿波五街道のひとつ、撫養街道は吉野川沿いに四国を横断して池田に至る道で、池田からは北に讃岐、南に土佐、まっすぐ行くと伊予に出る四国の十字路です。街道が吉野川の左岸を通るために川北街道とも称されていました。撫養町南浜・木津地区ではこの撫養街道にそって
約3kmに渡り断続的に古い町並みを見ることができます。連続性は無く、建てられた時代もバラバラですが、それがこの町の発展が長く続いた事を物語っています。街道沿いには酒蔵もちゃんとありました。
余談ではありますが、赤字の盲腸線であった旧国鉄鳴門線が廃止されずに今に残された理由に、淡路島ー明石を結ぶ瀬戸大橋によって本州と鉄道で結ぶ計画があったのです。そうなれば鳴門は再び四国の玄関口としての地位を取り戻すことができたかも知れませんが、明石海峡大橋が建設費の問題で道路単独橋となり、淡路島〜明石ルートの鉄道路線の夢が途絶え、本州四国が鉄道で結ばれる夢は、瀬戸中央道ルートの本四備讃線に委ねられる事になったのです。ちなみに大鳴門橋は鉄道併用橋として完成しており、これを復活させ、海底トンネル経由で和歌山と結ぶ計画も持ち上がりましたが、日の目を見ることはほぼ完全に無さそうです。
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