筑後平野は北九州有数の大穀倉地帯であるとともに、古くから酒造りも盛んに行われ「九州の酒どころ」として日本三大名醸地のひとつに数えられています。
城島は江戸時代初期に柳川藩支城の城下町として発達し、その後幕府の一国一城令による廃城後は、肥後街道筋の在郷町として再出発しました。城下町時代より三潴郡の中心部として発展してきましたが、この地域で酒造りが始まったのが文政12年(1829)ごろと言われていますが、明治10年の西南戦争によって酒の需要が急増。明治28年には三潴酒造研究所が設立され、城島内だけでも85軒もの酒蔵がありました。その後昭和初期まで34軒となり、戦時中の企業整理で16軒に再編。
戦後は4蔵が復活して20軒となりました。
しかし現在、日本酒不況のあおりを受け4軒にまで減ってしまいました。
城島の肥後街道沿いには、ほとんど伝統的な町並みは残されていませんが、城島の中心市街の一画、旧称で中町付近には創業延享2年(1745)の冨安本家酒造の大規模な酒蔵群が街道の両岸に立ち並び、焼板の黒壁と白漆喰のコントラストのある風景が往時を偲ばせていました。
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