柳川は古くは柳河と書き、筑後川・矢部川に挟まれた平たんな低湿地帯、筑後平野特有のクリークと呼ばれる水路・運河網が発達した水郷の町です。
この地形を利用した要害堅固な水城である梁川(柳河)城が中世に蒲池氏によって築かれます。豊臣秀吉の時代に立花宗茂が柳河城主になりますが、関ヶ原の戦で秀吉に付いた為、1年で改易。奥州棚倉に左遷されます。
かわって筑後一国32万5000石の田中吉政によって柳河藩が成立。城下をはじめ街道の整備や有明海の干拓などを行いましたが、跡継ぎが続かず2代であえなく断絶。再び奥州棚倉に飛ばされていた立花宗茂が復帰し、幕末まで続きます。
立花氏は新たな居住場所として柳河城内の南西隅に茶屋を建設します。「花畠」
と呼ばれた立花家別邸は現在「御花」と呼ばれています。明治には立花伯爵邸として白い洋館が建てられました。柳河城は明治に消失。城の石垣は干拓堤防に利用するため解体され、現在ほとんどその姿を残していません。
古い街並みや史跡は「御花」周辺に集中しており、柳川水路のドンコ舟による川下りの発着場も「御花」周辺にあるので、この場所を拠点にすれば柳川をまとめて探索することができます。
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