九州最大の河川筑後川、その南は屏風の様に連なる耳納(みのう)山脈。それらに挟まれた中間に筑後吉井の町はあります。
中世にこの一帯を支配した豪族星野氏は耳納山中(現星野村)を拠点し、山の麓にある福益に支城の福益城を築きます。しかし星野氏が滅亡すると福益城下の町民は豊後街道筋に移り住み街道町吉井の原形が出来上がりました。
江戸期に有馬氏21万石の久留米藩領となり久留米城下と天領日田とを結ぶ重要な街道の宿場町として整備されます。幕末前後に吉井の町は3度の大火に襲われ大半が消失しました。その為明治以降に防火性の強い白壁土蔵造りに立て替えられていきます。昭和初期には200軒ちかい白壁土蔵の商家が軒を連ねたといいます。
現在吉井の町並みは国の重要伝統的建造物保存地区に選定され、日々修景が進み町並みが保全されるようになりました。新しく立てられる店舗も町並みに合わせた意匠でデザインされています。内容的には埼玉県の小江戸・川越に近いものがありますが、観光客はほとんど見られません。したがって、観光客相手の土産屋などの店も見られず、ごく自然に人々が生活をしている町であります。
もうひとつ 吉井の町には筑後川の支流や水路が随所に流れる川の町でもありますが、古くから河童伝説が残っています。巨瀬川には河童が9000も住んでいたとされており、河童一族の末裔が今もいるとの事です。
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